とちぎの百様プラス

おやまひょうじょう

小山評定

天下分け目の小山評定

徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したのです。これが世に言う「小山評定」です。家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。
このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しました。一豊らの建議が諸将の気持を動かし、家康支持で固まったのです。家康は特にこの時の一豊の建議を、「古来より最大の功名なり」と激賞しました。
こうして家康率いる東軍は、石田三成討伐のため西上することに決したのです。
 
そして9月15日、美濃国(岐阜県)関ヶ原に東西両軍約20万の大軍が相まみえて天下分け目の一大決戦が行われ、東軍が勝利したのでした。関ヶ原の戦の直接の勝因は西軍小早川秀秋らの土壇場での寝返りでしたが、西軍が当初から足並みが揃わなかったのに対し、東軍は結束しておりました。東軍にこの結束をもたらしたのが「小山評定」でした。
もし、「小山評定」が無かったならば、東軍は結束することができたでしょうか。このようにして見ると家康が勝利を収めることができたのは関ヶ原の戦であっても、その栄光の道筋は、小山から始まったといっても過言ではないでしょう。
「天下分け目の関ヶ原の戦」と良く言われておりますが、実は、「天下分け目の小山評定」だったのです。

インフォメーション

■小山評定跡
栃木県小山市中央町1-1-1(小山市役所)